大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京家庭裁判所 昭和36年(家)3165号 審判 1961年5月06日

申立人 岡田明子(仮名)

相手方 川本久子(仮名) 外一名

参加人 足立公司(仮名) 外一名

主文

一、相手方川本久子は申立人岡田明子に対し、三七、五〇〇円を直ちに、および昭和三十六年五月から毎月末日限り三、〇〇〇円をそれぞれ東京家庭裁判所に寄託して支払え。

二、相手方川本太郎、および参加人足立公司、同岡田雅一に対する各申立を却下する。

理由

一、(本件申立の趣旨およびその実情)

(1)  申立人は心臓病と腎臓病で働くことができず、かつ、無資産であつて生活に困つている。

(2)  相手方久子は昭和五年五月十四日申立人と宮井一雄との間に生まれたが、両親が昭和七年十月十九日協議離婚した結果父に引取られて成人した。また相手方太郎は相手方久子の夫であつて、○○モータース株式会社(取締役社長宮井一雄)に勤務する高給とりで生活に余裕がある。その上相手方両名が申立人を引取ると言つていた事情もある。そこで相手方両名に対しては、引取扶養を請求する。

(3)  参加人足立は昭和二年五月十二日申立人とその先夫足立貞男との間に生まれた子である。同参加人に対しては金銭扶養を請求する。

(4)  参加人岡田は申立人の兄である。申立人は昭和三十年ごろから同参加人方に同居して世話をうけてきたが、同居家族が多く、引続き同居させてもらうことが困難である。そこで同参加人に対しては金銭扶養を請求する。

二、(調査資料)

当庁昭和三十四年(家イ)第二三三九号、同第四一五三号各扶養調停申立事件の一件記録、戸籍謄本、当庁家庭裁判所調査官の調査の結果、当裁判所の申立人、相手方太郎に対する各審問の結果、東京都文京福祉事務所長の回答書

三、(申立人の扶養必要状態と、現在までの経緯について)

(1)  申立人は明治四十三年一月二十五日生れであつて、大正の末期ごろ母岡田ヤエの経営していた飲食店(現在の東京都文京区富坂所在)で手伝つていたとき、客の足立貞男と知り合つて同棲し、昭和二年五月四日婚姻し、同年同月十二日参加人足立を分娩した。しかし、当時申立人夫婦ともに肺病を患い、生活に困つていた折、申立人は昭和三年十二月十一日夫の反対を押切つて、母の言うままに、協議離婚し、同参加人を夫に預けて実家に戻つた。

(2)  申立人は全快後昭和四年秋ごろタクシー営業の宮井一雄と見合結婚し、昭和五年五月十四日相手方久子を分娩し、同年九月二十九日正式に婚姻したが、とかく、夫婦の円満をかき、昭和七年十月十九日協議離婚したが、昭和八年春ごろ近親者の仲裁により一旦事実上復縁したが、そのごろ宮井一雄が現在の妻と深い関係をもつに至つたことなどから、昭和十一年五月ごろ再び別れ、相手方久子を引取つて母の許に戻つた。しかし宮井一雄は昭和十二年一月ごろ相手方久子を連れ戻してしまつた。

(3)  申立人は昭和十三年ごろ母の知人の紹介で大井洋吉と知り合つて、昭和十四年九月六日婚姻し、都内に住んでいたが、昭和二十年五月空襲により焼出されたため、実兄の参加人岡田と共同して、埼玉県北足立郡与野町大字上落合に一棟二戸建の居宅を買取つて、その各戸に移転した。ところで大井洋吉が同年末ごろ足に負傷して就労できず、生活が苦しくなつたことから、申立人夫婦は昭和二十四年三月二十六日協議離婚した。その後同参加人がその使用部分の一戸を売却して現在の住所の東京都文京区竹早町○○○番地に転居したが、申立人はそのごろ同参加人の許から母を引取り、間貸をして暮していた。しかし母が昭和二十九年五月十四日死亡するに及んで、申立人は自己の使用部分の残りの一戸を七〇、〇〇〇円で売払い、同参加人方で世話してもらうことになつた。

(4)  申立人は昭和三十二年ごろまで内職によつて、生活費をかせぎ出すことができたが、同年ごろから、高血圧症と慢性膀胱炎で漸次労働能力を失い、無収入となつた。かようなわけで、唯一の資産の上記(3)の七〇、〇〇〇円も生活費と医療費にあててしまつて、生活に困窮したため、昭和三十四年十一月一日から、東京都文京福祉事務所から生活扶助毎月一、八二五円と医療扶助をうけることになつた。しかしながら申立人はその地位相当の生活を維持するためには、(相手方久子に引取扶養を請求した)昭和三十四年六月以降毎月生活費として六、〇〇〇円および医療費相当金額の扶養を必要とする状態にあつた。

四、(申立人の子と兄の扶養義務について)

申立人の直系血族としては子の相手方久子と参加人足立の二人だけであり、兄弟姉妹としては、兄の参加人岡田の一人だけである。そこで、同人らが現実に扶養義務を分担すべきか否か、負担するとすればその順序扶養の程度、方法いかんについて以下検討してみる。

(1)  (参加人足立の扶養義務について)

同参加人は上記三の(1)のとおり父母の離婚後父の許に引取られて養育されたが、その後申立人とは文通すらしたことなく、両者は本件の係属後相互に住所を知り合つたに過ぎない。ところで同参加人は妻正子と長男伸之(昭和三十五年十一月三十日生)の三人家族であつて肩書地の寺院の一室を間借し、株式会社ラジオ関西編成局編成課にプロデューサーとして勤務し、月収一六、〇〇〇円位をえているが、その全部を生活費にあてており、余力がないものと認められる。

したがつて少くとも現状では扶養義務が発生していないものといわなければならない。

(2)  (相手方久子の扶養義務について)

相手方久子は上記三の(2)のとおり父に引取られて成人し、昭和二十五年十一月二十六日相手方太郎と結婚式を挙げ、肩書住所に新家庭を築き、昭和二十六年八月八日婚姻の届出をした。その後申立人が時折相手方太郎の不在中相手方宅を訪れていたが、昭和三十四年六月はじめごろ訪れた際、相手方両名に対し引取扶養を申し出た。これに対し相手方久子は父宮井一雄から申立人を引取扶養することを強く反対されており、また夫が上記会社の営業課長の地位にあつて、同会社の取締役たる父と従前から親密な関係もあつて、父との紛争を極度にさけたい考えからその申出を拒絶した。すると参加人岡田と申立人は相手方久子が実の子でありながら、拒絶したということなどから、大いに憤概し、ここに相手方両名との間に激しい感情的対立を生じ、本件の調停申立となつた。

しかして相手方太郎は月一〇〇、〇〇〇円以上の給料をえ、その内から、毎月長男実、長女麻子、二男進の五人家族の生活費六〇、〇〇〇円位、交際費一五、〇〇〇円位、保険料五、〇〇〇円を支払いその残額二〇、〇〇〇円位を貯金しているが、相手方久子は主婦として家事労働にたずさわり、かつ無資産であることが認められる。これらの事情および下記五の事情に照らすと、相手方久子に引取扶養の義務を負わせることは相当でない。

そこで相手方久子に金銭扶養をする余力があるか否かについて検討してみる。

相手方太郎が毎月二〇、〇〇〇円位を貯金し、黒字家計となつているが、相手方太郎の給料は勿論同相手方のものであつて、ただ相手方久子が家事労働によつて家庭生活に協力しているため、家族の一切の生活費をその給料の内から支払わなければならない拘束をうけているだけである。したがつて相手方久子は少くとも姻姻の継続中においては、毎月の残余金については具体的な権利を有しない。

そうすると、相手方久子に扶養能力があるとすれば、相手方太郎から相手方久子自身の毎月の諸経費として支給されるべき金員の一部をさいて支払うことになるところ、諸般の事情に照らすと、相手方久子自身の交際費、娯楽教養費その他の諸経費として割当られるべき金員の内から毎月三、〇〇〇円を保留してもなおかつ地位相応の最低限の生活をすることができるものと認められる。したがつて、その金額相当の扶養義務があるものといわなければならない。

しかして相手方久子は昭和三十四年六月はじめに申立人から引取扶養の請求をうけたのであるから、同年同月分以降の扶養料を支給すべきところ、申立人は昭和三十四年六月以前から引続き参加人岡田方に同居し、住宅費を除く生活費として毎月四、〇〇〇円位を必要とし、その内二、五〇〇円位は申立人の収入と支給される生活扶助料(ただし昭和三十四年十一月以降)の内よりまかなわれ、残額の一、五〇〇円位は同参加人において負担していたこと、および下記(3)のとおりその同参加人は昭和三十六年三月二十日重態に陥つたこと他一切の事情を考慮し、相手方久子は昭和三十四年六月分より昭和三十六年四月分までの間の扶養料として三七、五〇〇円(昭和三十四年六月分から昭和三十六年二月分までの間を毎月一、五〇〇円として、同年三、四月分を各月三、〇〇〇円として算出したもの。)および昭和三十六年五月分以降の扶養料として毎月三、〇〇〇円の各支給義務があるとするのが相当である。

(3)  (参加人岡田の扶養義務について)

同参加人は申立人の兄であり、冬期に薪炭小売業を、夏期に氷小売業を営んで月約二〇、〇〇〇円の収益を上げていたが、昭和三十六年三月二十日肝硬変症により重態となり、同月二十二日都立大塚病院に入院し、加療中であり、全治の見込みがたたない。

同参加人の資産としてはその住所に宅地二五坪三六および同宅地上に木造トタン葺二階建居宅一棟延建坪約三〇坪がある。その間取りは階下六畳二間、三畳一間、土間と附属設備、階上六畳三間、三畳一間と附属設備である。階上は昭和三十五年十一月住宅金融公庫から二二〇、〇〇〇円その他から相当額の借金をして、間貸用に増築したものである。

同参加人の家族は妻たつ、二女圭子(昭和十一年八月十八日生)長男亀吉(昭和十三年三月一日生)長女内堀君子、その夫高雄、その間の子美子、智子および申立人の九人であつて階下の三畳間を亀吉と申立人が、階下の六畳二間を他の家族がそれぞれ使用し、階上の各部屋は昭和三十六年二月十二日から他人に貸与し、月合計二二、五〇〇円の間代収入をえている。同参加人の家族(申立人をも含む。)の生活費は月約四〇、〇〇〇円であつて、長女夫婦が一二、〇〇〇円を、二女圭子が月一、〇〇〇円ないし二、〇〇〇円を分担していた。長男亀吉は大学四年生であるが、同参加人の入院後母たつを助けて、家業に専念している。

上記のように同参加人は月収二二、五〇〇円をえているが、そのうちの大半は借金の返済資金にあてられる外、入院料月五、八〇〇円および治療費月三、〇〇〇円の支払にあてられているので、少くとも入院以後においては、金銭扶養する余力がないといわざるをえない。

そこで同参加人が引続き申立人を同居させるべきか否かについて検討してみるに、同参加人方は同居家族が多い上に、長男亀吉が婚期にあつて近く嫁を迎える予定であるから、申立人を階下の三畳間に引続き同居させることは著しく困難であり、しかも階上の部屋は賃貸して借金の返済資金および同参加人の生活費、医療費などを調達する必要があるから、同参加人の家族にさえ使用させることができない状態にあるものと認められる。したがつて同参加人に対し引取扶養を法律上強制することも相当でない。

そうすると、同参加人は昭和三十六年四月四日申立人より扶養の請求をうけたものと認められるが、少くとも同日以降においては扶養義務が発生していない。

五、(直系姻族たる相手方太郎の扶養義務について)

申立人は上記のとおり相手方久子から毎月三、〇〇〇円の扶養をうけることになるが、かりにそれを生活費にあてたとしても、まだ毎月の生活費三、〇〇〇円および医療費が不足することになる。そこで相手方太郎に扶養義務を負わすべきか否かについて検討してみる。

申立人は相手方太郎の妻の母であつて、一親等の直系姻族である。しかし相手方太郎は婚姻当初宮井一雄の現在の妻を相手方久子の母と誤信していたが、それから三年後になつて、はじめて妻から申立人が実母であることを打明けられた経緯もあつた程で、勿論かつて同居生活をしたことがなく、また相手方両名が申立人から生活の援助をうけたこともない。更に宮井一雄においては相手方太郎が申立人と交際することを快く思つていなかつたことなどもあつて、とかく疎遠であつた。かような事情の下では、相手方太郎に生活の余力が充分あつても、いまだ民法第八七七条第二項に規定する「特別の事情」に該当しないものと解するのが相当であるから、相手方太郎が道義上あるいは扶養する旨の約束により申立人の生活を援助する場合は格別として、同法条による扶養の義務を負わせないのを相当とする。

六、(結論)

(1)  相手方久子は申立人に対し扶養料として三七、五〇〇円を直ちに、および昭和三十六年五月分以降毎月末日限り三、〇〇〇円をそれぞれ東京家庭裁判所に寄託して支払うのが相当である。

(2)  相手方太郎、参加人足立、同岡田には扶養義務がないからその申立を却下する。

よつて主文のとおり審判する。

(家事審判官 鹿山春男)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例